ライフワークバランスを図る意味

布施 倫英(ヘルシンキ大学人文学部言語学科 専任講師)

私は、ライフワークバランスが整っているはずのフィンランドに在住しているのに、長時間労働をしてしまう。その理由は山ほどある。担当する授業数と学生数が多いから、スタッフ数削減の影響で業務量が増加した、新しいICTに対応するためトレーニングコースに参加する必要がある、キャリアアップを目指して新しい研究に挑戦したい、フィンランドで移民として暮らす私は、言語などのハンディがあり、それを努力でカバーしなければならない、などなど。どれも、もっともらしい(?)言い訳である。

フィンランドで生活しているうちに、自分の「休めない(休みたくない)」習慣に気が付いた。フィンランドで生まれて育った子どもを見ていると、「休む、つまり学校の勉強から離れる」習慣をしっかり教育されている様子がよく分かる。小学校では毎日何らかの宿題が出るけれど(これは、日本のメディア報道とはだいぶ違う)、そして子供達は毎日放課後の趣味活動で大忙しだけれど、睡眠を削らなければならないほど大忙しだったら、たぶん方々から予定を考え直すようにクレームが入るだろう。長い夏休みに宿題全くなしというのは、日本のメディアで報道されているとおりだ。3ヶ月近い長い休みを、学校のことを忘れてただただ遊びまくる(あるいは、ぼけーっとして過ごす)。もちろん、仕事を持つ親たちは、親が一緒に休みを取れない期間、子どもをどこへ送り出すかの調整に四苦八苦するのだが、例えばヘルシンキ市では、児童公園が無料のクラブ活動や遠足、昼食を提供してくれるので何とかなる。子ども達は「休む」ためのサポートを受けられる。

フィンランドの長い夏休みの話を日本の友人達にすると、たいていは「さすが、ライフワークバランスの国、フィンランドだね!」と褒める。それじゃあ、日本もそうなったらいいねと言うと、続く答えは大抵こんな感じだ。

「あ、でも、そんなに休みが長かったら何していいのかわかんない」

「休みで暇になるより、仕事してお金を稼いだほうがいい」

「休んでいる暇があったら、キャリアアップの努力をしたい」(私)

「あんまり休むと、さぼってるみたいだよね。やることがあった方がいい」(私)

「長い休みっていいね」と思うけれど、実際に自分には必要ないと考える。これを、忙しさへの中毒、頑張ってる感の消費と言わずして何と言えよう。

子どもが3歳だった時、預けている保育園で苦い経験をした。私は、上記の長時間労働をしなければいけない言い訳をつらねて、夏休みの間にいろいろと仕事を進めようと思っていた。そして、7月の保育園を予約しようとしたところ、園長先生からコメントが来たのだった。

「なぜ、7月に子供を預けるのか。この1年間ずっと長期休暇を取っていないようだけれど。あなたの労働環境に何か問題があるのではないか。問題があれば相談にのりますよ。」

「いえいえ、私が仕事をする時間を確保したくて。」

「そういう理由ではいけない。あなたが長期休暇を取らずに仕事時間を確保しようとすると、そのために保育園の職員が休めなくなる。社会に関わって仕事をしている限り、バランスを取る必要がある。」

最初は、「保育園代を払っているんだから、サービスを受けられて当然でしょう!私は移民なんだから、他のフィンランド人よりやるべきことが多いのだ!」と憤っていた私だったが、実のところ、園長先生は私の状況を心配して声をかけてくれたのだ。それにも関わらず一人むくれていた私は、自分の都合だけを考えた傲慢さを露呈させてしまったわけだ。

こういう考え方は、社会民主主義的で日本には適合しないという意見もある。また、時には、どうしても長時間労働しなければならない場合もあるだろう。でも、そのような状況が長く続くのだったら、やはりどこかに問題があると言えるのではないか。保育園の園長先生が指摘したように、労働環境に問題がある、生活支援の必要があるのにその支援を受けられないでいる、支援制度が十分ではない、あるいは、本人の労働に対する考え方の問題など。

私にとって、現在の在住地フィンランドで働くことは、フィンランドの社会に参加することにつながっている。それなら、私が働くことで、社会のバランスを崩すようなことがあったら、本末転倒なお話だ。私は、フィンランドの地で働くことを通してフィンランドの社会に関わっていきたい。そして、人の手を借りて働いているということも忘れてはいけないのだと思う。

それにしても、長時間労働の呪縛はそう簡単にはとけない。隙あらば仕事のメールボックスを開き、一本でも多く論文を読もうとし、一行でも原稿を書こうとする。四当五落とか、努力あってこそだとか、そういう根性系頑張ってる感の消費には中毒性があるようだ。一度植え付けられた価値観を覆し、発想の転換をするのは本当に難しい。


こんな空の下で、隙あらば論文を一行でも読もうとする私に、家族はあきれ顔。

(JSPSストックホルム研究連絡センター付記)
※本御寄稿にあたっては北海道大学欧州ヘルシンキオフィスから布施先生の御紹介と御協力をいただきました。