JSPS男女共同参画推進アドバイザーからのメッセージ
河江肖剰先生

名古屋大学 高等研究院 准教授
河江 肖剰
 先生

【研究内容】
エジプト考古学

【研究概要】
ピラミッド内外の3D計測による形状データの取得によって、建造方法の解明と通時的な発展の研究を行っています。

【趣味・特技等】
Close Quarters Combat, ブラジリアン柔術、古流柔術

マイノリティをすくいあげる制度

古代エジプトのピラミッドの研究調査をしている河江肖剰と言います。高校を卒業後、エジプトのカイロに一人移り住み、ガイドの仕事をしながら国内の遺跡や、近隣諸国をバックパッカーとして回っていました。26歳の頃、奨学金を得て、現地のカイロ・アメリカン大学に入学し、本格的にエジプト学を学び始めました。学問の世界に入ったのは、一般的な研究者よりかなり遅いと言えます。

在学中、発掘調査に参加すると単位が貰えるという “Independent Study” という制度が学内にあることを知り、自分が最も参加したかったギザの「ピラミッド・タウン」という発掘現場の隊長であるピラミッド研究の第一人者マーク・レーナー博士に直談判しました。学生の前例はなかったようですが、彼の論文や報告書をほぼ全部読み、話したところ受け入れてもらうことができました。現場では、初めてのことばかりで大変でしたが、貪欲に質問し、自分のタスク以上の仕事していった結果、卒業後は調査隊の正式なメンバーになることができました。これ以後、レーナー隊ではカイロ・アメリカン大学からの学生を受け入れるようになりました。

レーナー隊では「ピラミッド・タウン」の発掘に従事するだけでなく、当時新しかった3D技術を用いたピラミッドの記録調査なども始めました。充実した毎日でした。そんな折、一緒に住んでいた妻が卵巣癌になりました。子どもは3人いましたが、上から7歳、5歳、3歳とまだ小さく、エジプト国内の医療事情も考え、すぐに日本に帰国しました。彼女の実家は愛知県の名古屋でした。当時、私は学士しか持っていませんでしたが、エジプトで一度だけお会いしたことがあった名古屋大学人文学研究科の周藤芳幸先生に相談し、社会人入学として、修士を飛ばし、博士後期課程に出願しました。制度的には問題はなかったのですが、前例はなかったようです。レーナー隊で、こつこつ書いていた発掘調査の報告書が山のようになっていたため、それを認めてもらうことができ、入学が叶いました。これ以後、人文学研究科では、社会人の受入が増えたと聞いています。ただ、妻は私の入学と同時に他界しました。

3人の子育てをしながらの、博士論文執筆は簡単ではありませんでしたが、彼女や私の両親、彼女の友人たちなど、多くの人に助けられて完成させることができました。博士号取得後は、学術振興会の特別研究員に応募しようと思いましたが、39歳であった当時、年齢制限にひっかかりました。ただ一つだけ年齢制限がないものがありました。それがRPDです。出産・育児のために研究活動を中断した者のための制度ですが、男性が応募できないとは書いていませんでした。学振に問い合わせたところ、これまで例はないけれど、募集要項に反していないので、応募するのは大丈夫だと思うとのことでした。結果、男性として初めてRPD特別研究員となりました。翌年からは早速男性も応募しており、さらにこれ以後、学術振興会の特別研究員の年齢制限も撤廃されたそうです。

振り返ると、ある種のマイノリティとして生きていたように思います。そのなかで、いわゆる王道ではない方法で、研究者として生き残ることができたのは、周りの人の助けはもちろんですが、やはりそこにはマイノリティをすくい上げるという人がいたり、制度があったりしたことです。

現在、名古屋大学高等研究院に所属し、若手研究者サポートやそこでの男女参画の改善に係わっています。その中で、学術振興会の制度を前例にすることが少なからずあります。そこにすでに制度があれば、大学でも展開しやすいです。その学振の制度は、若手のみなさんからの声を上げて頂くことが基本となっています。それを様々な形で拾い上げて、制度に落とし込むために、関係者が尽力していると思います。今期から学振の男女共同参画推進アドバイザーになりました。私も若手のみなさんやマイノリティのみなさんの声をできるだけ拾い上げ、学振に届けたいと思っています。そして、それが今度は大学にフィードバックされるようにしていき、引いては社会の変革の一端になればよいと思っています。そのためには、様々な制度を必要な人たちに知ってもらうということも大事だと感じています。

最後に、エジプトには16年間住んでいたのですが、その際、生きるすべとして学んだのか「マレッシュ(しかたない)」と「インシャ・アッラー(神の思し召しがあれば)」という言葉でした。努力した後は、インシャ・アッラーで、だめならマレッシュ。その繰り返しで生きてきたように思います。この言葉を言っているだけで、いつも気持ちが楽になりました。