アカデミアにおける男女共同参画はなぜ遅々として進まないのか
〜英国・欧州日本人研究者交流会、男女共同参画セッション講演を終えて〜
安藤 真一郎(アムステルダム大学 物理学研究所)
2023年4月29日、イギリスの南西部デボン州にあるトーキーという港街で開催された、英国・欧州日本人研究者交流会(JSPSロンドン研究連絡センター共催)に夫婦で参加してきた(妻は世話人の一人であった)。さらにはそこで約50名全員参加のもとで行われた男女共同参画セッションの最初に、話題提供として20分ほどの講演を行った。そして大役を終え一休みしていたそんな矢先である。JSPSロンドン研究連絡センターの担当の方から、男女共同参画セッションも含めた交流会の内容をニュースレターに掲載したいとの連絡を受けたのだ。さて困ったことになった。講演では賛否両論集めそうな内容をふんだんに詰め込んだため、まとめるにも細心の注意を払わないと火傷しかねない。私の直感がそう告げていた。そこで最初は該当部分だけ削除してもらおうかとも考えた(なんのことはない、「忙しい」という伝家の宝刀を抜けば造作もないことだ*)。しかし同時に、ここで発信を怠ることは、他でもない私自身が当日伝えたかったメッセージと矛盾を起こしているのではないか、という考えが頭をもたげてきた。そして最終的にはこれが決め手となり、手間と時間はかかっても自分自身の言葉でまとめて公開し、全責任を負うという形をとらせてもらうことにした。これが本記事を書くに至った経緯である。ということで以下では当日の男女共同参画セッションで話した内容を、多少肉付けして紹介したい。
*そして私は、本当に、暇ではない。
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はじめに
JSPSが注力している男女共同参画問題。そういう背景もあって今回の交流会のセッションの一つのテーマとして据えることが早い段階で決まっていた。ただ、当初このセッションを任せられていた若手男性研究者は一抹の不安を抱えていた。「盛り上がらなかったらどうしよう。何を話していいかわからないし、どこに地雷があるのかもわからない。」奇しくもSNSでは頻繁にこの問題が取り上げられ、女性限定公募などをめぐって時に不毛な議論が繰り返されているような現状。または、非公式でも飲み会などでこの問題が話題に上る経験をされた方もいるかと思う。そういう背景を勘案すると前述の若手男性研究者の心配はよく理解できるところもある。そして彼はこうも言っていた。「何が問題かわからないから教えて欲しいと言っても、不機嫌になられるから難しい。」つまりこれは、女性にとってみれば当たり前すぎる問題点が山ほどあるのに、それを全く見えていない男性があまりにも多い、ということを表しているように思える。逆に男性の立場からすると、そもそも気付かないことを気付けなど、無理難題を押し付けられているように感じてしまう。すでにこの時点で激しいすれ違いが生じてしまっているわけだが、逆に言うとこの「何が問題かわからない」を突き詰めていくことで、この問題の本質に多少なりとも迫れるのかとも思う。
さて、この若手男性研究者の不安然り、この議題は大変センシティブで、時に特定の層を不快にさせる危険性を常にはらんでいる。全くもって損な役回りだが、それでも今回私がこのセッションの話題提供の役目を引き受けたのにはいくつか理由がある。まずは同じく研究者をパートナーに持ち、10年以上に渡ってこの問題を他人事にできず直視し続けてきたこと。そして自分自身ヨーロッパでPIとして身を立ててきて、この問題を別の角度からも常々意識してきたこと。「何が問題かわからない」というマジョリティの立場(日本における男性)にも、そのようなマジョリティの意見に苛立ちを感じるマイノリティの立場(ヨーロッパにおけるアジア人)にも立ってきた経験。しかし一番感じていたのは、この役目は男性がやらなくてはならないと言うことだろう。女性が話すと、いまある対立構造がより悪化するだけになりかねないのである。
前置きが長くなったが本題に移ろう。
なぜ男女共同参画が必要か
この問いに対して自分なりの答えを出す際、正義や倫理観、ましてや感情論など持ち出すつもりは一切ない。単純に社会全体のアウトプットを最大化しようとすると男女共同参画を実現することがいちばんの近道だ、と考えるからだ。当日使用したスライドの1枚(図1)で、例として非常に簡単化したモデルを作って*、横軸に性別を、縦軸に仕事への適正(研究能力だったり、やる気だったり)をとる。極端な例として、従来型の男性だけが仕事の適性を問わずに働きに出るケース1(オレンジの枠)と、逆に男女問わず仕事への適正が高い人だけが働きに出るケース2(緑の枠)だったら、どう見てもケース2の方が社会全体からのアウトプットが大きいことは明らかだろう。ことの本質はこれほどに単純なのだと思う。
しかしこういうふうに言うと、男性の方が仕事への適性が高いだの、研究能力が優れているだの言う意見が聞こえてきそうである。そのように断言する人は大体において根拠薄弱なので相手にする価値もないのだが、一応言っておくとそのような結論をサポートするようなデータも研究結果もどこにもない。また、よくある論調として、女性は理系科目の中でも数学や物理を特に苦手とするという意見も見かけることがあるが、これも私自身の体感とも全く合わない。過去10年以上に渡って理論物理の科目を学部大学院に渡って講義を持ち、博士課程の学生も数多く指導してきたが、一番できる学生は教える年によって、男性の時もあれば女性の時もある。割合にしてはそれこそ半々という印象だ。
ただ日本にいると、高等教育における理系の男女比なんかを見て、そう錯覚してしまうのも無理のない話なのかもしれないということは付記しておく。
*簡単化し過ぎという批判も聞こえてきそうだが、案外簡単なモデルから深い洞察を得ることは自然科学では多い。一昔前から改善したとは言え、依然アカデミア全体で良い近似でこのモデルが当てはまるのではないかと思う。特に教授レベル以上など階層の上に行けば行くほど精度は良くなっていくだろう。
なぜ男女共同参画が進まないのか
講演の最初に、簡単にアンケートを取って挙手してもらった。男女共同参画は(1)実現すべき、(2)実現すべきでない、(3)興味がない、の3択である。約50名の参加者ほぼ全てが(1)に、2〜3名が(3)に挙手していた。このようにほぼ全ての研究者が男女共同参画は実現すべきだと思っている。この事実がありながら、他方では実現する気配は一向に訪れない。この矛盾はどこからくるのだろうか。
そもそも学会などで催される男女共同参画セッションなどの様子はどうだろうか。女性が企画して、女性の講演者が、女性の参加者に語りかけるものが多いのではないか。そうでなくても基本的に男性の出席率は極めて低い傾向があるのではないか。皆が皆口を揃えて、男女共同参画は大事だと言っているという事実があるにもかかわらずだ。私は、この男女共同参画が遅々として進まない理由は、(これは少し耳の痛い話になるかもしないが)男性の大半が本当のところは進めたくないからなのだと思っている。
実際男性側の目先のメリットを考えてみると、男女共同参画が進んだところで損することはあっても得することはない。面倒が増えるし*、特に若手の立場からすれば上の世代が何の苦労も罪悪感もなく享受していたものを、自分たちの世代になって急に受けられなくなる恐れがあるわけである。ということもあり、大義としてはよくないことだと無意識下では感じつつも、そっと目を閉じて耳を塞いでしまう。するとどうだろう。不思議なことに、そもそもそんな問題なんて無かったことになっているではないか!
反対に女性たちはどうだろう。彼女たちだって100%研究に集中したいのは山々である。できることなら男女共同参画なんていう本来存在すべきでない問題から目を背けたいという気持ちでいっぱいだろう。しかし現実にそうするとどうなるか。結局その皺寄せは自分に返ってくるだけになってしまうのだ。
このように男女共同参画実現の妨げになっているのは(主に)男性側の無意識下での行動(というかむしろ行動を起こさないこと)にあるのではないだろうか。問題解決に向かって積極的に行動を起こさないことは、反対していることに匹敵するくらい罪である、という論調さえ成立しそうだ。
*別の視点が入ることで、大小諸々の事柄に関して意見の相違が発生し、すり合わせが必要になってくる。これを余計な手間、面倒事と捉えるかどうかだ。ポジティブに捉えられれば、多様性を認める最大のメリットともなりうる。
無意識のバイアス
男女共同参画を実現するための目標のひとつは、より健全な男女比を目指すことであるが、当然それだけでは意味がない。それにもまして重大な解決すべき問題点としては、いまだに残る性差別があるだろう。しかしこの2020年代、個人個人で話をすると、差別主義を公言する人に出会うことは滅多にない*。誰もが口を揃えて「女性の社会進出をサポートしている」とか「うちの研究室は実力主義で、男女分け隔てなく接する」などと公言しているわけだ。にもかかわらずこの問題が残り続けているのは、やはり「〇〇はかくあるべき」という無意識のバイアスが強く作用しているからだと考えられる。
バイアスを持たない人間など存在しない。それこそ長い人生の中で毎日のように習慣的に浴び続けてきたものから逃れることなど容易ではない。無害な例を一つ挙げよう。日本ではエスカレーターは故障するとすぐに通れなくしてくれるが、ヨーロッパでは開けっぱなしでそこを歩かされることが結構ある。厄介なのは、これは今故障中で動いてないと頭では分かっていても、あのギザギザの黒い床を見ただけでどうしても動いているように感じてしまうことだ。それで踏み込んだ最初の1歩目でどうしても躓きがちになってしまう。同じ失敗を、何度となく繰り返してしまうのだ。このように、頭では分かっていても取り除くのはほぼ不可能というバイアスに私たちは日々さらされているのである。
さて、日本社会の価値観に話を戻すとやはりいまだに「男だから」「女だから」という刷り込みが根深く残っているように思う。(都市部と地方でも差はありそうだ。)例えば私が日本のとある大学にセミナーに行った際、気を遣ってか飲み会の際に両隣に修士一年生の女子学生を配置されたことがある。逆に同じく修士一年の男子学生はいちばん遠いところに配置された。それほど昔の話というわけでもない。別の大学にセミナーに行った時は、たまたま私が一人で当時0歳だった娘を連れての訪問になってしまった(妻は急な出張が入っていた)のだが、日中は民間のベビーシッターを探して何とかするも、夜に入っていた歓迎会と称した飲み会はやむなく娘連れで参加することに。だからと言って別に時間を早めてくれるなどはなかった。まあ非常識だと怒られはしなかったが。なお、男性が育児をひとりで行う環境は、日本では全くと言っていいほど整っていないことを実感したのもこのときだ。ともかくこれらの例でわかるのは、「若い女性がお酌すべき」、「育児は女性がすべき」という無意識のバイアスの根深さ。私はせいぜいこれくらいの例ですんだが、女性であればこのような苦労は日常茶飯事で受けてきていることを想像すると、かなりこたえるものがある。
*もちろんSNSの匿名アカウントなどではこの限りではないのかもしれないが、そもそも匿名という時点で本人がなんらかの後ろめたさを感じているものと思われる。
マイクロアグレッション
私たちがまだ日本にいた頃、妻はほぼ毎日のように女性蔑視発言を受けていた。海外にでて頻度は減ったものの、それでも折に触れて「研究費がとれないなら、上目遣いで可愛くおねだりしたら」「旦那さんがポジション取ったんだから、研究やめて専業主婦にならないの」「旦那さんを支えるべきでは」「研究者夫婦なんて苦労しかないからおすすめしない」などなど、枚挙にいとまがないくらいの発言にさらされてきた。(かなりわかりやすく抽出してあるので、これらの発言のどこが問題かわからないと言う人はよもやいまいが、念の為最後に解説をつけておく。)厄介なのは、どれも一応発言者本人は親切心のつもりで言っていて、悪気も一切ない。そのため抗議することで逆にこちらが冗談の通じないノリの悪いやつ、面倒臭いやつになるという構図が出来上がってしまうことだ。こういうのをマイクロアグレッションと言う。一つ一つのダメージはそれほどではなくてギリギリ気付くか気付かないかのレベルだが、それが積もり積もって後で気力が削がれてしまうという厄介なものだ。低温火傷のようなものだと言えばわかりやすいだろうか。
そしてこのマイクロアグレッションが無意識のバイアスと重なり合って降りかかってきた時に、事は深刻になる。問題解決に向けて前進することができないばかりか、むしろ後退させようとさえしてしまう。皆が皆、無意識でこれを行なってしまう。もちろんアカデミアだけではなく社会全体の構造に深く根付いた問題である事は確かだろう。しかし一人一人が、問題を取り除く事はできなくとも、問題が存在すること、完全に取り除くことが難しいということを自覚するだけでも前へ進む大きな一歩となる。
女性限定公募
近年男女共同参画を実現するためのステップとして女性限定公募、女性限定採用が話題となることも多い。制度自体の賛否は別として、まだまだ始まったばかりということもあり、継続的な練り直しや改善が今後も必要なことは確かだろう。そこは皆が一丸となって議論していくべきだと思う。
その上で目に余るのは、さまざまなところから聞こえてくるぼやきのようなものだ。当事者である若手男性研究者のものが多いかと推測するが、「逆差別だ」「女性だからという理由で実力もないのに優遇されている」「性転換した方がいいのかも」などの意見。シニアな男性PIからも、今の男子学生が置かれている状況に関して同情的な意見を聞くこともある。
しかし今一度冷静になって考えてほしいのは、事態はいまだに過渡期の一番初めのフェイズに過ぎないということだ。皆が願うように、本当の意味での男女共同参画が実現したとしたらどうなるか、想像したことがあるだろうか。(もっというとマイノリティ推進が進んで、国際化も実現したとしたら。)間違いなく任期なしポジションをめぐる競争は、今よりもさらに熾烈な(しかしより健全な)ものとなるだろう。それは図1の解説で説明した通り、現状女性研究者の大半が十分な競争力を与えられていないことからも明らかかと思う。言い換えればこれまで男性研究者の方こそが高い下駄を履いてきたということだ。その事実を忘れて、高い下駄が少々すり減っただけで、草履をあてがわれ始めた女性研究者を攻撃し始めるのは本質を見失っているとしか思えない。そのような愚痴など過去への執着であり、未来を見据えていないことの表れだ。
研究者である以上、理想は研究で突き抜けることだ。私自身いまだにこれができずに苦しんでいるし、時に愚痴を言いたくなる気持ちはよくわかる*。しかし時に自分を振り返ると、そのような後ろ向きの姿勢から得るものなど何一つない。結局のところ自分自身に胸を張れるような研究成果を上げることで突き抜けるほかないし、そうすることで多少なりとも他者に配慮ができる余裕も生まれるのだろうと思う。
*何もPI職を取れたからといってそこがゴールではないし、そこから新しいスタートなのである。
社会は息苦しくなっているのか
ここで冒頭の「どこに地雷があるのかわからない」という意見に立ち返る。この講演の最後の質疑応答でも、「では男性研究者は愚痴も言うこともできないのか」という意見もあった。これを持って現代社会を息苦しいとする流れもあるだろう。しかし私はそうは思わない。発信が容易になっている時代だからこそ、ひとりひとりが発信前に、今一度自分の考え方をより注意深く見つめなおすきっかけを与えてくれていると見ることもできるだろう。そもそも何が問題なのかもわからないまま、あるいはよく考えもしないまま、無意識という都合のいい言葉を隠れ蓑にして他者を攻撃するなど言語道断だったのだ。いま相手側が反発してくれることで、少なくともそこに問題が存在することを認識できるだけ良いではないか。
誤解してほしくないが、誰だって辛い時やうまくいかない時は、愚痴を言ったっていい。しかし、女性限定公募に限っていえば、なぜか男性と女性の対立構造がすぐに浮き彫りになる。本来文句を言うべきは、制度を作った側に対してであって、その制度を利用している女性研究者に対してではない。制度を作っているのは大半の場合男性であることは事実であり、従って男性が考える最適解へと舵を切っている可能性も否定できない。現行の制度は本当に女性研究者側が歓迎しているものなのだろうか。本当に男女共同参画を実現したければ、対立するのではなく共同で制度を変えていくよう提言していくのが本来取るべき行動であろう。
終わりに
随所に補足説明は加えたが、おおよそ上記のような内容で講演を行なった。世話人に頼んで、交流会後のアンケートの結果の一部を共有してもらった(計42名からの回答)。図2に交流会全体の満足度(5段階評価で、1がまったく満足しなかった、5が非常に満足した)をグラフにして示している。全体的に4,5と交流会自体は大成功であったと言える。次に図3に、私の担当した男女共同参画セッション講演に関するアンケート結果を示す。概ね満足度は高いものの、ちらほらと1,2の低評価も見て取れる。興味深いのはこれを性別に分けて表示した場合だ。これらの低評価は押し並べて男性研究者からのものであることがわかる。年齢で明確な違いは見当たらなかった。講演する前から、内容が内容なだけに、男性研究者からの反感を買うのは避けられないだろうなと、ある程度は覚悟していたことであるが、実際その通りになったようだ。不満だった理由は興味があるところではあったが、特に言及されていなかったので多分私の物言いが不遜だったから反感を招いただけだということにしておく。とすると、これはいつもそうなので何も驚くに値しない。ただこれはこれとして、一般的にはこういう危険性があるから、この役割を若手に任せるのは難しいのだ。少し胸を撫で下ろしたのは、男性の中にも考えるきっかけを作ることができたように見えることだ。
私自身、日本の研究者コミュニティーにおける男女共同参画系の企画にはほとんど参加したことがなく、今回がほとんど初めてといえる。ただ、ヨーロッパで多様性に関する議論は委員会を掛け持ちして経験しているので、それを通して見えてくる問題点も多々ある。おそらく各国共通で最も深刻な問題のひとつは、マジョリティ側の人間が興味を示さないこと、また発信する側に回らないことだろう。今回の企画の成功のひとつは交流会参加者全員が出席したこと。もうひとつは(もちろん自画自賛するわけではなく)マジョリティ側が発信する側に回ったことが挙げられるだろう。今後このような機会がある際には、この2点にも注意して企画をしていただけたらと思う。
最後に、注意深く書いたつもりではあるが、特定の個人・グループを攻撃する意図は全くないことを申し添えておく。ずいぶん上から書いているな、と感じられた方もいるかもしれないが、そうであったら申し訳ない。ただ研究者をパートナーに持つものとして日々この問題について、おそらくほとんどの日本人男性研究者よりも考えてきており、ようやく今になって自分なりに消化し、言語化ができつつある段階なのでついつい色々書いてしまったのかもしれない。ここに至るまで10年以上の歳月を費やしたわけであるが、その間「何が問題なのかわからない」という、今にして思えば呆れるような質問をし続ける夫に対して、我慢強く説明し続けてくれた妻には感謝しかない。多分彼女でなければとっくに諦めて離婚、良くて別居されていたことだろう。頭が上がらない。ありがとうございました。これからはあまり怒らないでください。
解説:マイクロアグレッションの具体例
「研究費がとれないなら、上目遣いで可愛くおねだりしたら」
この発言はお酒の席で、皆さん上機嫌で研究のことやらPIの苦労話やらを共有している場で起きた。笑ってすまされたし、発言した本人も覚えていないことだろう。アルコールが入る最大のメリットは、真面目な議論もインフォーマルにできることだが、この発言はどう考えても女性PIを下に見てのものではあるまいか。「研究費がとれないなら、土下座でもしてみたら」と外国人PIに言われたらどう思うのか。余裕で笑ってすませられると思ったあなた。卑屈すぎ、下に見られていますよ。(さらにもう一歩踏み込んでおくと、この発言者の人種や性別をいろいろ変えて想像してみると面白い。受ける印象が変わったりしただろうか。もし変わったとしたら、それも無意識のバイアスである。)
「旦那さんがポジション取ったんだから、研究やめて専業主婦にならないの」「旦那さんを支えるべきでは」
もはや解説も不要なくらいだが、実際にこのような余計なことを言ってくる人たちは男女問わず大量にいた。(10年くらい前の話なので、今はマシだと信じたい。)女性の選択肢として、専業主婦になって夫を支えるということが美徳とされてきた時代の名残だろう。いまだに無意識下でこう思っている人は多少なりともいるのではないか。男性側に例えるなら、パートナーの女性の仕事が安定している時に、専業主夫にならないのはなぜかと大真面目に聞かれているということだ。それも自身の研究について全く知らない人にまでも。
「研究者夫婦なんて苦労しかないからおすすめしない」
文脈にもよるが、一般論としてこういう発言が行われた場合、一見的確なアドバイスのように見える場合もあるだろう。そして実際のところ、研究者カップルは苦労が多い。一人でさえ常勤職に着くのが難しいのに、二人でほぼ同時に、さらに現実的に通える距離でとなるとなおさらだ。ただ、そのようなことは、わざわざ忠告されなくとも、言われた本人たちが誰よりも一番分かっているのだ。「大変だね」くらいでよいのではなかろうか。それともどちらかに「一歩さがれ」というメッセージでも伝えたいのだろうか(だとしたらそれは無意識のバイアスからきている)。発言者には悪気はないが、受け取る方にモヤモヤが残るという一例。